日本における最初の前照灯研究

1920年の照明学会誌に掲載された前照灯光学系の概念図

 日本の自動車産業の幕開けは、1903年(明治36年)3月に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会とされます。自動車を初めて見た起業家達は、乗合自動車の営業を始めるべく海外から中古車を取り寄せ、地元の警察に営業許可を申請します

Source ; バス事業五十年史

1903年10月、日本初の乗合自動車 二井商会

 初期の自動車はトラブル続きで、明治末期でも国内登録台数は200台余り。それが大正時代に入ると米国車の輸入増加とCKD生産(米国車メーカーの日本生産)開始により20,000台超に達します。この頃に日本の前照灯研究が始まります

 日本の前照灯研究は、1916年(大正5年)設立の日本照明学会で始まります。当時の日本の自動車産業は米国車に太刀打ちできず、自動車関連の学会設立は1947年のJSAE(日本自動車技術会)まで待たなければなりません

 一方、国内の照明産業は明治初期のガス灯、アーク灯から始まり、1890年(明治23年)の電球国産化を経て、明治後半には一大産業に発展します。その為、比較的早い時期に照明学会が設立されています

 自動車工業が発展した欧米では更に早い時期に自動車関連の学会が設立されます。1903年 VDI(ドイツ自動車技術者協会)、1905年 SAE(米国自動車技術者協会)、1906年 IES(北米照明学会)などの各種学会が設立され、そこで前照灯の研究が始まります

 その後、第一次大戦(1914年~1917年)で欧州は荒廃、米国は戦時特需で好景気に沸いた結果、自動車工業は米国一強になり、前照灯研究は米国が牽引するようになります

 当時の日本の光学技術者は米国照明学会との交流を通じ、前照灯グレアが社会問題化していることを知ります。1917年(大正6年)に開催された第一回・日本照明学会で前照灯に関する最初の研究成果が報告されます

 その報告では「近頃の前照灯は強大な光を発する為、対向車の運転手が眩惑され、歩行者を直視出来ずに事故を起こすことが多い」とし、前照灯の視認性とグレア低減を両立させる方策として、2千件余りのアイデアから実施可能な案を絞り込み、試作と評価の結果を示しています

照明学会誌 第1号3巻「自動車前燈に就て」 (現代風に表現)

 グレア低減を実現する実施可能な案  
1. 光度を下げる
2. 光度が低い補助灯具を点灯する
3. 前照灯を下に傾斜させる
4. パラボラリフレクタで反射された光に対して以下装置を施す
   
散乱硝子、回折硝子、乳色膜、レンズ、プリズム、格子、外部反射器
5. 光源とパラボラリフレクタの間に以下装置を施す
   
光源の硝子球を覆うカバー、金属製反射器、プリズム屈折装置
6. 特殊光源
   
フィラメント形状を様々に変更、光源の硝子球を加工
7. 特殊設計、特殊形状の反射器
   
中心軸を偏向、2重焦点、楕円リフレクタ

 しかし決め手となるアイデアを見い出すことが出来ず、”研究継続” で結ばれています

 大正元年(1912年)に国内を走行する自動車の前照灯はランタンかアセチレンガス灯でした。明るさは充分では無く、灯具の追加装着や明るい大型灯具への交換が行われます

Source ; 1913年 雑誌「自動車」2月号

1913年 丹波園部街道前照灯を複数搭載する自動車

 やがて国内に明るい電球式前照灯が導入されると、更に明るい電球式サーチライトの装着が流行ります。当時の自動車雑誌には200間(360m)先を照らせる強力な自動車用サーチライトの広告を見る事ができます

Source ; 1918年 雑誌「自動車」9月号 株式會社 辰巳自動車商會・広告より 

 当時の前照灯はハイビーム機能のみで、車両が対向した時は互いに消灯し、すれ違うまでは暗闇の中を徐行します。対向車が消灯しなければ自車も消灯しないなどの意地を張り合うケースもあったようです

 1919年(大正8年)の自動車雑誌には、前照灯の暗さが原因となった単独事故と、双方が明るい前照灯のまま走行し、互いに目が眩んで衝突した事故事例が紹介されています 

Source ; 1919年5月 帝国自動車保護協会発刊 「自動車」より

右赤線 「ヘッドライトが暗かったので此の過ち」 
左赤線 「双方の車が共に強烈なヘッドライトを有し、両運転手とも目が眩んだ場合」 

 日本照明学会は1917年以降も前照灯研究を続けますが、視認性とグレア低減の両立は難しく、1919年(大正8年)に独自研究を断念し、欧米の最新技術を導入する ”漸進主義” に転じます 

 1920年(大正9年)の照明学会誌では、前照灯研究の難しさを以下のように表現しています

東京市神田区学士会事務所における講演「自動車前照灯に就て」 から抜粋、現代風に修正

 「運転手は強い照射光を求め、歩行者は拡散された光を好む。照明学の見地からも、路上を最大照度にして歩行者グレアを最少化することは容易では無い。米国照明学会が委員を設けて長年研究を進めても両者に完全なる認容を得られていないことからも、その推察は難しくないことであろう」

 1922年(大正11年)、日本照明学会は万国照明委員会への参加に向け、日本電気学会と共同で ”照明委員会” を設立し、その傘下に ”自動車前照灯標準制定委員会” を設立します

 そこで前照灯配光の比較や測定距離の影響を研究し、その成果を万国照明委員会大会で報告しています。当時の報告資料から前照灯の配光性能を伺い知ることができます

1927年、第7回 万国照明委員会大会、報告資料より

 1923年(大正12年)、交通省は米国で義務化された2ビーム式前照灯を国内導入すべく、ハイビーム相当の ”A級前照灯” とロービーム相当の ”B級前照灯” を車両に備えることを義務化します

 1926年(大正15年)、交通省は ”前照灯委員会” を設立し、販売前の前照灯に対して委員会が試験を実施し、合格した前照灯のみに販売を許可しました

Source ; 照明学会誌

1926年、室内試験で使用する前照灯取付け枠

 時代が昭和に変わった後も欧米との工業力・技術力の差は縮まらず、欧米の研究成果を導入する漸進主義を継続します

 1929年(昭和4年)に米国株の急落で世界経済が傾き始め、1931年(昭和6年)に満州事変、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まり、日本は戦時体制に移行します

 国内の自動車産業は軍需物資を運ぶトラックの生産に向けられ、単車や小型三輪車が一般庶民の足になります。自動車照明機器は東京芝浦電気(現:東芝)等の大手に加え、白光舎(現:市光工業)、小糸源六郎商店(現:小糸製作所)等の新興企業が多数参入します

 その頃、照明学会は軍部の要請を受け、サーチライトや夜間灯火管制等の研究とガイドライン策定に取り組むようになります

 日米開戦後、日本軍は物量に勝る米軍に圧倒され、夜戦と奇襲に頼らざるを得なくなります。光学技術者達は赤外線測距や暗視装置、照明弾や閃光弾などの光学兵器の開発に取り組みます

 前照灯研究の再開は、終戦後の1946年(昭和21年)11月に組織された自動車照明委員会からです。前照灯の検査要領や電球規格、JES検査規格等を定めることから始まり、モータリゼーションの礎の一部を築いていくことになります

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