江戸の庶民が夜間に出歩く時は須らく提灯を使うイメージを持っていましたが、当時のロウソクは高価で庶民が気軽に使えるモノでは無かったようです

現代では夜間に自動車やバイク、自転車等を運転する時はライトの点灯が当たり前ですし、点灯していなければ違反切符を切られます。いつの時代から夜間点灯が義務付けられたのか調べてみました
自動車
自動車の夜間無灯火を禁じた最初の法令は明治36年の愛知県令です(愛知県・乗合自動車営業取締規則・県令第61号)。以下、当時の自動車事情を少し振り返ってみます
明治19年、初のガソリン自動車 ”パテント・モーターワーゲン” がドイツで誕生し、明治20年代の中頃になると欧州で一般向けの自動車販売が盛んになります。日本の新聞や雑誌等でも自動車の話題が少しずつ取り上げられるようになり、明治31年にフランスから日本へ自動車 ”パナール・ルバソール” が持ち込まれます。明治33年に皇室へウッズ社製の電気自動車が献上され、試走で皇居のお堀に落ちたという逸話が残されています
明治30年代の前半は、好事家の富豪が個々に自動車を海外から取り寄せていたようですが、殆どの日本人には縁も興味も無い乗り物でした。それが一変したのは明治36年の第5回内国勧業博覧会です。複数の海外製自動車が展示され、来場した多くの日本人は自動車を初めて目にします。勘のいい起業家はそれまでの乗合馬車に代わる ”乗合自動車” の新規ビジネスに気付き、日本中の地元警察に営業許可が多数申請されたことが、自動車取締規則公布のきっかけになりました

明治政府は自動車の法制化について、各地の貧富や諸事情に合わせて府県単位で規則を制定する方針を示し、愛知県が初となる乗合自動車営業取締規則を制定後、同年に長野県、京都府、富山県などが続きました
明治36年、富山県令・第29条第10項
「夜間ハ必ス制規ノ燈火を点シ行進スルコト」
自動車関連の法令が全国一律で制定されたのは大正8年(1919年)の自動車取締令と道路構造令からです。それまで自動車の正式名称すら定められていなかった為、”自働車”、”馬なし馬車”、”自動荷車” などの表現も使用されていましたが、法令により ”自動車” に統一されました
法制化の前年、明治44年設立の日本初の国産自動車メーカー ”快進社自働車工場” は社名を ”快進社” に変更し現在の日産自動車に至っています
自転車
明治31年6月1日、警視庁令第20号第2条で夜間走行におけるライト点灯を義務付けたのが最も古い規制と思われます
自転車は江戸時代末期・慶應年間に輸入が始まり、自動車が初めて輸入された明治31年には全国の自転車台数は約27,000台に上りました。その殆どは米国からの輸入でした

自転車は輸入当初より交通事故が問題視され、大阪府は明治3年に道路上での使用を禁じる自転車取締府令を出します。しかし効果が無かった為に明治5年に悪質な違反者の自転車を没収する旨の取締鋼令を制定しますが、守る人はあまり居なかったようです
引用元 自転車文化センター 日本における自転車の交通安全対策の変遷
馬車
明治3年11月19日の御布告で、馬車や騎馬の夜中無灯が禁止されています
明治6年 憲法類編、明治3年11月19日御布告 より
「馬車騎馬夜中無燈禁止ノ事」

歩行者
明治2年11月23日、東京府の御布告において、午後5時以降に無提灯で通行する者を召し捕る旨の通達が出ています
参照:明治6年 憲法類編、明治2年11月23日御布告
「無提燈通行禁止ノ事」
「夜五時ヨリ無提燈ニテ往来致シ候者於有之ハ見受次第速ニ可召捕」
現代では歩行者に灯火携行を義務付ける法令は無く、都道府県警が反射材やライトの携行を呼びかける ”お願い” に留まっています
人力車
明治6年3月25日、日本省第45号布達において、夜間に無提灯で人力車等を曳いたり乗馬することを禁じています
参照:明治6年 憲法類編、明治6年3月25日布達
「夜中無提燈ニテ諸車ヲ曳キ又ハ乗馬スル者」

まとめ
灯火の法令が制定された時代に何が起きたのか、なぜ法令が必要になったのかもっと知りたいところですが、残念ながら理由を記した資料に巡り合えていません。現代においても法律や規制の裏には様々な思惑やしがらみがあり、簡単に説明できないことが殆どですので、100年以上も前の法令の背景や理由を知るのは簡単ではありません
当時の様々な文献から情報を拾い上げて時代考証をしていくしかありませんが、意外に面白い作業です。新聞や雑誌からは人々の関心事が伺え、特許には問題や不満の解決手段としてのアイデアが記載されています。過去を調べることで未来が分かると言います。過去の文献を調べつつ灯火の未来を想像していくことにします