前照灯の歴史を知るには、黎明期のクルマを当時の人々がどのように観ていたかを知ることが助けになる
前照灯の登場は定義にもよるが1900年頃とされる。ここでは自動車の誕生から1900年頃に至る経緯と、当時の日本における自動車関連記事から人々のクルマ観、前照灯観を垣間見る
18世紀~19世紀、自動車の始まり
世界初の自動車は、江戸時代後期の1769年、フランス国王ルイ15世に仕えたキュニョー大尉が、大砲を曳く為に製作した蒸気機関で動く ”砲車” とされる
Nicolas Joseph Cugnot の砲車、写真は1770年製作の2号車
1800年代に入ると蒸気汽車が実用化され、1820年代に乗合型・蒸気自動車、1830年代に電気自動車が登場、人を乗せて移動する ”乗用車” の開発競争が始まる
蒸気自動車の開発で先頭を走っていた英国では、馬車産業を保護する為、安全確保を理由に1865年 ”赤旗法” が制定される
赤い旗を手に持った先導人が自動車の前を歩くことを義務付けた法律で、英国の自動車産業にブレーキを掛けた施策と言われる。ちなみに夜間は先導人が赤いランタンを手にしたという
英国では1886年に電気自動車の販売が開始され、1891年にドイツとフランスでガソリン自動車の販売が開始されると、蒸気、電気、ガソリンの3種類の動力源が優劣を競い始める
1894年に世界初の自動車レースが開催され、フランスのガソリン自動車 ”パナール・ルバソール” が優勝。その後の数年間は勝利を独占し、ガソリン車が性能優位を示すとともに、パナール社は世界最大の自動車メーカーに成長する
1898年、日本に初の輸入車として ”パナール・ルバソール” が持ち込まれるが、当時の日本は自動車の認知度が低く、話題にならなかった
この頃になると ”自動車” 又は “自働車” という名称で、日本の新聞や雑誌が話題として取り上げるようになり、人々が関心を示し始める
当時の記事を読むと、初めて自動車の存在を知った日本人が、自動車をどのように考えていたかを知ることができる
20世紀初頭(1900年頃)の日本人のクルマ観
明治36年(1903年)雑誌 ”少年世界” の自動車記事に、7種類の動力源が紹介され「電気、ガソリン、蒸気」の3種類が広く使われ、電気が最も広範に使用されていると記載されている
7種の自動車動力源
・電気
・瓦斯(ガソリン)
・蒸気
・圧搾空気
・炭酸瓦斯
・アルコール
・液体空気
電気自動車の特徴を、重い、静か、航続距離が短い、市街地向きとしており、当時の人々が、現代の電気自動車に対する認識と同様の認識を持っていたことが分かる
当時の電気自動車の重量や価格の説明を見ると、庶民が手を出せる価格帯では無いことが分かる
電気自動車の重量と価格 (1圓=2万円で計算)
・車重
900ポンド ~ 4,000ポンド (408kg ~ 1814kg)
・電池重量
500ポンド ~ 1,500ポンド (226kg ~ 680kg)
・価格
小4輪 1,500圓 ~ 3,000圓 (3,000万円 ~ 6,000万円)
中4輪 4,000圓 (8,000万円)
大4輪 6,000圓 ~ 8,000圓 (1億2,000万円 ~ 1億6,000万円)
明治32年(1899年)のアメリカ製自転車が200圓 ~ 250圓(400万円 ~ 500万円)という価格から、裕福な庶民は自転車、大富豪は自動車というヒエラルキーが見えてくる
明治36年(1903年)以降になると、各地で乗合自動車の営業が開始され、日本初の乗合自動車会社 ”二井商会” の記録によれば、2人乗り蒸気自動車2輌を4,000圓(8,000万円)で購入し、6人乗りに改造したとある
明治33年(1900年)欧米商工視察報告書では、パリにおける自動車の流行から、馬車時代の終焉を予見している
・最近パリでは瓦斯か電気で動くオートモービルが、馬車の代わりとして大流行している
・速力による危険の心配が無ければ、将来、馬車は無くなるだろう
明治33年(1900年) 團團珍聞(マルマルちんぶん)では、消防車について触れている
・欧米では消防機関の運搬に自動車が用いられている
・出火の電鈴が鳴る瞬間に、蒸気ポンプが自然に走り出す仕掛けになっている
明治33年(1900年)機械雑誌では、自動車の速度への驚きを示している
・パリで開催された自動車レースの勝者は、平均時速42哩(67km/h)だという
・汽車の速力に等しく、実に驚くべき快速力と言える
明治33年(1900年) 軍事新報では、帝国陸軍が自動車の活用を検討している様子が記載されている。特に夜間に特化した実験を行っている点は、市井の記事に見られない特徴といえる
・8台の自動車を実験に用いて、特に夜間の試みは予定通りうまくいった
・夜間、部隊へ地図を送る為に自動車2輌を走らせたところ、1輌が巨石に衝突して動けなくなった
・そこで地図をもう1輌に移し替え、85kmの長距離を比較的少ない遅延で走破した
1900年当時の自動車には、まだ前照灯と呼べる明るい灯具は装着されていなかったことから、夜間走行の実験では暗闇の中を疾走したと思われ、2台中1台が衝突で動けなくなったことは、致し方ない結果に思える
明治39年(1906年) 中央新聞週報の連載ストーリー「ホーム」に、主人公 ”太郎” が、夜間に自動車で移動する際に、衝突を心配する様子が記載されている。当時の前照灯が心許ない照射性能であったことが伺える
明治35年(1902年) 圓圓珍聞では、自動車のガス欠騒動を取り上げている。自動車がまだ珍しい存在であったことが伺える
・奥陸軍中将の息子が、購入した自動車の試験走行をした
・370kmを走れる揮発油を入れ、予定の行程を走行したが燃料不足でクルマが動かなくなった
・仕方なく車夫を雇い、自動車の後ろを押させて無事に帰れた
明治36年(1903年)巖谷小波署 ”洋行土産” では、ベルリン市内の自動車事情を記している
・自転車の本家はアメリカ、自動車の元祖はフランスと言われる
・この頃になりようやく、ベルリン市内で自動車が流行りだした
当時は汽車が最速の乗り物であった。それを上回る速さの自動車への不安と警戒心が伺える
・自動車は汽車より速く、相当な肺活量が無いと呼吸ができない
・枠付きの眼鏡をかけて用心しないと目を傷めてしまう
自動車事故の危険性は当時の人々も認識していたようで、ベルリンで聞いた ”生命保険の加入者が増えそう” という笑い話を伝えている
・自動車レースで、子供2~3人が轢き殺されたと聞く
・ベルリン市内でも、衝突で重傷を負ったという記事を時々見る
・戦争以外の理由で保険加入者が増えるとした ”自動車の流行” 、という笑い話がある
事故の心配以外にも、自動車のネガティブな一面として ”土煙” を指摘している
・自動車の土煙がヒドく、20世紀の未来に町が第2のポンペイになると悪口を言われている
・道路が整備されていない東京で自動車が流行れば、それは本当になるかも知れない
土煙に関して、少年世界の記事に真逆の予想が書かれている
・米国の統計家によればニューヨーク市の粉塵の2/3は馬蹄から発生している
・馬車が自動車に代われば粉塵が出なくなり、掃除をしなくて済むようになる
どちらが正しかったかは不明だが、古くは馬蹄の粉塵を懸念し、その後は自動車の土煙を心配し、近年はディーゼルのススに憤り、現在はEVのタイヤから生じるPM10を問題視するなど、時代は変われど、似たような懸念が継続している
自動車イラスト、灯火器を装着している
1901年10月の機械雑誌には、”空飛ぶクルマ” の記事が掲載されている
・米国人ホワイトヘッドは、空中航行も可能な自動車を発明した
・ブリッジポートで試験し、道路を時速20哩~30哩(32km/h~48km/h)で走行した
・その後、翼を広げて50呎(約15m)の高さを半哩余り(約800m)を飛行した
・クルマの全長は16呎(約4.8m)、大きなコウモリのような形をしている
この話が本当であれば、ライト兄弟による1903年12月の人類初飛行より2年以上も前に、ホワイトヘッド氏は飛行に成功したことになり、飛行機の歴史が塗り替えられる偉業になるが、証拠が少ないため、今も論争の最中にあるらしい
ホワイトヘッドと娘ローズ、1901年製 単葉機「ナンバー21」
まとめ
明治33年(1900年)の日本における民間の4輪自動車登録台数は1桁であり、軍や皇室の車両を除けば、人々が自動車を目にする機会は滅多に無かったと思われる
そのような中、自動車というキーワードを通して世界の進化を感じ取り、自動車がもたらす社会の変革に夢と希望を膨らませていた人が大勢いたことは想像に難くない
明治36年(1903年)に日本各地で乗合自動車の営業が始まり、明治37年(1904年)に国産初の山羽式蒸気自動車が岡山を走行、残念ながら初期のビジネスは悉く失敗に終わるが、日本の自動車産業の幕開けとなる
当時の日本の自動車関連記事には、夜間に関する内容は殆ど見られないが、唯一、陸軍が地図の夜間部隊発送の実験を行い、2輌中1輌が衝突故障しながらも任務遂行、と報じた記事は注目に値する
それ以前は夜間に長距離を移動する手段に乏しかったことを示唆しており、この実験により、自動車には強力な灯火器が必要ということが改めて認識されたのではないかと思う
歴史調査には様々なアプローチがあり、今回は日本人のクルマ観を調査した。他のアプローチも絡め、前照灯の発明に至る経緯について更に調べていきたい